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多くの熟練職人の技術を経て出来上がる、「生粋」の輪島漆器。 大雅堂は、この伝統と技術を守り続けます。 |
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<大雅堂の歩み>
大正11年 初代若島平吉(現社長の祖父の兄)が、漆器業を始める。
大正12年 二代目若島登(現社長の祖父)が、前身である「若島屋漆器店」を開設。
当時は道路どころか交通手段も未発達、塗師屋はふろしき包みを担いで、もっぱら徒歩で全国を行商する。
このころ鉄道は、輪島まで開通しておらず、背中や両手に荷を沢山背負い、午前2時頃輪島を出発して、20kmばかり先の穴水へ歩いていき、そこから船に乗って七尾へいき、汽車に乗って金沢へ出て、北陸・信越と乗り継ぎ、翌朝東京・上野へ到着した、そうで、輪島から東京まで、30時間の旅でありました。
昭和44年 三代目若島量平(現社長の父)が、輪島漆器大雅堂(株)を設立。
三代目は、輪島で初めて、百貨店における展示会・外商販売を始める。
この頃、道路がつながり(親不知などはまだ簡単に越えられはしなかった)、車での行商ができるようになった。そのため、今まで持ち回れなかった、輪島塗大型家具(座卓・屏風・飾り棚等)が、全国に販売されるようになった
昭和61年 三代目が亡くなり、四代目若島終子(現社長の母)が後継する。
平成14年 現社長若島貴三夫(若島基京雄)が五代目に就任。
既存の製品に飽きたらず、積極的に新製品を開発しながら、販路拡大に努め、輪島塗の保存・継承に努める。
現在は、道路も整備が進み車も進化して、東京までは8時間ほどで行けるようになりました。
輪島には能登空港もできて、飛行機なら1時間です。大変近く便利になりました。
大正11年 初代若島平吉(現社長の祖父の兄)が、漆器業を始める。
大正12年 二代目若島登(現社長の祖父)が、前身である「若島屋漆器店」を開設。
当時は道路どころか交通手段も未発達、塗師屋はふろしき包みを担いで、もっぱら徒歩で全国を行商する。
このころ鉄道は、輪島まで開通しておらず、背中や両手に荷を沢山背負い、午前2時頃輪島を出発して、20kmばかり先の穴水へ歩いていき、そこから船に乗って七尾へいき、汽車に乗って金沢へ出て、北陸・信越と乗り継ぎ、翌朝東京・上野へ到着した、そうで、輪島から東京まで、30時間の旅でありました。
昭和44年 三代目若島量平(現社長の父)が、輪島漆器大雅堂(株)を設立。
三代目は、輪島で初めて、百貨店における展示会・外商販売を始める。
この頃、道路がつながり(親不知などはまだ簡単に越えられはしなかった)、車での行商ができるようになった。そのため、今まで持ち回れなかった、輪島塗大型家具(座卓・屏風・飾り棚等)が、全国に販売されるようになった
昭和61年 三代目が亡くなり、四代目若島終子(現社長の母)が後継する。
平成14年 現社長若島貴三夫(若島基京雄)が五代目に就任。
既存の製品に飽きたらず、積極的に新製品を開発しながら、販路拡大に努め、輪島塗の保存・継承に努める。
現在は、道路も整備が進み車も進化して、東京までは8時間ほどで行けるようになりました。
輪島には能登空港もできて、飛行機なら1時間です。大変近く便利になりました。
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お正月らしい輪島塗として、屠蘇器・重箱のセットは、欠かせないもの。 屠蘇器には、お年始のお客様や家族で、おめでたいお屠蘇を頂くために必要なものが揃っています。
ふたを開けると、おめでたいいわれのおせち料理が並ぶ重箱。持ち運びに便利なだけでなく、漆には抗菌効果もあります。先人がのこしてくれた素晴らしい文化をお試し下さい。
目に見えない部分までも輪島塗であること。座卓の裏側も、幕板の裏側も、そして床にふれる足の底面も、すべて輪島塗。だから畳や絨毯にも、指にも食器にもやさしいのです。
輪島の飾り棚は、細い柱や裏板などの細かい部品の一つ一つを輪島塗に仕上げたのちに組み立てます。末永くご愛用いただくための工夫の一つです。
輪島漆器大雅堂 -ショールーム-

輪島塗専門店単独では日本最大級の輪島塗展示場「輪島漆器大雅堂」。展示スペースは120坪超。もちろん、展示商品も広さにまけないくらいの質と量が揃っています。輪島塗の逸品を、ぜひ輪島漆器大雅堂の常設展示場へご来場いただきご覧ください。